追放剣士の再起録
横流し帳簿
帳簿を開いた瞬間、レオンは紙の匂いの奥に、乾ききらない嘘の気配を嗅いだ。
積み上げられた受領帳、輸送記録、照合票。どれも数字は揃っている。揃っているからこそ、わずかな違和感が浮く。
「……一回分、足りない」
ミオが指で頁を追いながら、小さく呟いた。
倉庫から出たはずの糧秣は、記録上では帝都行きの隊列に乗っている。だが、受領印の位置が一か所だけずれていた。印を押した者の手癖が、同じ日付の別の帳面と噛み合っていない。
アリアは眉ひとつ動かさず、次の帳簿を開く。
「一か月だけの誤差ではないわね」
紙面を覆うように、冷たい声が落ちた。
「三か月、四か月……いえ、もっと前から。輸送票では満載、受領帳では欠損、倉庫の在庫はいつも『不足気味』で通されている」
「つまり、横流しだ」
ガルドが机に肘をつき、低く唸る。
「盗賊が山からかっさらったんじゃない。最初から、誰かが抜いてる」
「しかも一人じゃない」
レオンは、帳簿の端に残る不自然な書き込みを指で弾いた。
修正の癖が違う。筆圧も、線の止まり方も、削った跡の深さも、ひとつの手ではない。けれど、どれも同じ目的に向かっている。
少しずつ消し、少しずつ足し、帳尻だけは崩さない。
剣で切り裂けば終わるような粗い悪事ではなかった。
誰かの空腹を、誰かの傷を、誰かの死を、帳面の中で静かに帳消しにするやり口だ。
「現場の怠慢じゃない」
レオンは、頁をめくる手を止めた。
「倉庫番が一人で抱え込める量じゃない。記録を触る者、積み出す者、受け取るふりをする者。複数が噛んでる」
「そして、その上に命じる奴がいる」
アリアが言い切る。
「帳簿は嘘を隠すために整えられている。つまり、整えること自体が仕事になっている」
書記官が、棚の向こうで息を呑む音がした。
レオンは振り返らないまま、静かに問う。
「この修正、誰が通している」
「わ、私は……」
声が震える。
「私は記入を回すだけで、細かいところまでは……」
「細かいところが本体だ」
ガルドが吐き捨てる。
「飯が減れば兵が減る。薬が減れば傷が残る。弓弦が足りなきゃ壁が抜かれる。ここで抜かれた分、外では誰かが死ぬ」
ミオは唇を噛み、在庫表の欄外を見つめた。
「薬も、減っています。特に治癒薬。戦闘後の補充分が、少しずつ少しずつ……」
「負傷者を減らしたいなら、最初から傷つくなってことか」
ガルドの言葉に、誰も笑わなかった。
むしろ、その残酷さが、かえって帳簿の冷たさを際立たせた。
レオンは胸の奥で、別の怒りを抱え直す。
自分が切り捨てられたのは、ただの政治ではなかった。
兵の腹と傷と命を、数字で削る連中がいる。
その綻びを隠すために、一人の剣士を罪に仕立てた。
「見つけたわ」
アリアの声が鋭くなる。
彼女が机の端へ引き寄せたのは、古い照合票だった。倉庫印、輸送印、受領印。三つ揃っているはずの欄の一つだけが、別の用紙から切り貼りされた跡を残している。
「この紙、差し替えられてる。しかも最近」
指先で示した切断面は、まだ白く新しい。
「この要塞の補給は、単発の盗みじゃない。帳簿ごと管理されてる」
その言葉が落ちた直後だった。
記録庫の奥で、乾いた紙が擦れる音がした。
誰かが棚の裏へ回った。次の瞬間、暗がりから細い影が飛ぶ。
「待て!」
レオンが踏み込んだときには、もう遅かった。
襟元を隠した男が、脇に抱えた一束の帳票を奪って逃げる。ガルドが机を蹴って追うが、相手は棚と棚の隙間を知り尽くしていた。
荷重のかかった靴音だけが、迷路のような通路を抜けていく。
「回り込む!」
アリアが即座に指示を飛ばす。
ミオは怯えながらも、落ちた帳票の一枚を拾い上げた。
そこに残っていたのは、破り取られた末端の断片。日付と、納入先と、かすれた署名の一部。
レオンはその紙をひったくるように受け取り、目を走らせた。
整えられた数字の並びの中に、一か所だけ、逃げ道のない空白があった。
そこに押されていたはずの印章の輪郭は、半分以上が剥がされている。それでも、残った文字の端は読めた。
ローヴァン。
ただの一文字ではなかった。
帝都の影を背負う者の名が、帳簿の泥の底から、冷たく浮かび上がってくる。
レオンの喉が、熱くなる。
追放は、個人の失脚ではなかった。
辺境の飯と薬と矢を削り、その上で人を切り捨てる仕組みの一部だったのだ。
「……見つけた」
低く漏れた声に、アリアが振り向く。
だが、次の瞬間、彼女の表情が変わった。
記録庫の入口が、内側から閉じられている。
逃げた男ではない。別の誰かが、外から鍵を掛けた。
「封鎖された」
ガルドが舌打ちする。
「証拠を持ってるから、消す気だな」
レオンは帳票の断片を握り潰さないよう力を込めた。
紙の向こうで、確かに何かが動いている。帳簿を奪い、口を塞ぎ、痕跡を焼き切る手際の良さ。
組織だ。
中央が、辺境を食い物にするために組み上げた歯車だ。
扉の外から、重い靴音が近づいてくる。
複数だ。
レオンは剣の柄に手を添え、仲間たちを見た。
ここを切り抜けなければ、証拠は燃える。だが、切り抜けた先には、もっと大きな敵が待っている。
「出るぞ」
レオンの声に、ミオが小さく頷き、アリアが冷たく目を細める。
ガルドは獰猛に笑った。
「ようやく殴り甲斐が出てきたな」
鍵の向こうで、誰かが低く命じる声がした。
次の瞬間、記録庫の扉に、金属の先端が突き立てられる音が響いた。
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