追放剣士の再起録
監察官来訪
霧の朝、ヴェルド要塞の正門前に黒塗りの馬車が止まった。扉が開き、白い手袋をはめた男が、まるで晴れの日の客人のように石畳へ降り立つ。監察官ローヴァンは、礼儀正しく、穏やかで、そして底知れない笑みを浮かべていた。顔を合わせた瞬間、レオンは理解した。あの笑顔は人を安心させるためのものではない。相手に自分の呼吸まで数えさせるための圧力だ。
「長旅でした。皆さま、辺境の務めに感謝します」
ローヴァンはアリアへ深々と頭を下げ、次にレオンへ視線を移した。
「お会いできて光栄です、レオン殿。あなたの名は帝都でも耳にしました。追放された剣士が、こうして辺境で剣を取っているとは」
丁寧な言葉のまま、刃だけが喉元へ寄る。レオンの指がわずかに剣の柄へ触れたが、すぐに力を抜いた。ここで怒れば、相手の思う壺だ。
アリアが一歩前に出た。
「本日の査察は、要請書に基づく記録確認までです。記録庫の封印を解くには、正式な手続きが必要です」
「もちろんです。私は規律を守る人間ですよ」
ローヴァンは微笑みながら頷いた。
「ただ、資料にある事実を見せていただければ、それで十分です。隠し立てがないなら、何も困ることはありませんね」
その言い方が、すでに疑いの形をしていた。昨夜まとめた証言書と帳簿の写しは、記録庫の奥で封印されている。ローヴァンが本当に欲しいのは、そこに触れる口実だ。レオンは表情を動かさず、静かに答えた。
「必要な資料は、全て手順に従って提示する。封印を破る理由はない」
「ええ。落ち着いた判断です」
ローヴァンは満足げに目を細めた。何も渡さないことが、逆に相手を苛立たせるのだと知っている顔だった。
査察は兵舎へ、倉庫へ、治癒室へと流れていった。ローヴァンはどの場所でも声を荒らげなかった。代わりに、見習い兵の肩を軽く叩き、包帯を巻き直す治癒師に労いをかけ、兵糧袋の口を指先でなぞりながら、ひとつひとつ丁寧に数を問うた。
「この数で、何日持ちますか」
「傷病者の増加が見込まれるのに、薬草の補充が遅れたのですか」
「皆さん、ご苦労なさっていますね。ですが、中央の支援は無限ではありません。無駄なく使わねばなりませんよ」
礼を尽くした口調のまま、責任だけをこちらへ押しつける。兵たちの表情が少しずつ硬くなる。ガルドが歯を噛みしめ、今にも一言吐き捨てそうになった瞬間、レオンが視線だけで制した。ここで荒らしてはいけない。ローヴァンは、こちらが怒るのを待っている。
やがてローヴァンは、誰にも聞こえぬほど低い声でレオンを呼び止めた。
「少し、お話を」
廊下の窓辺まで移ると、朝霧の向こうにまだ黒い馬車が見えた。ローヴァンは窓の外を眺めたまま、柔らかく言った。
「あなたは賢い方だ。賢い方ほど、何を守るべきか知っているはずです」
「守るべきものなら、ここにある」
レオンは短く答えた。
「そうでしょう。では、余計なものは手放した方がよろしい」
ローヴァンは微笑みを絶やさない。
「たとえば、帝都の記録を覆す証拠などは、ですね」
一瞬だけ、空気が凍った。だがレオンは目を逸らさなかった。
「正式な要請があれば出す。今はその時ではない」
「実に模範的です」
ローヴァンは満足そうに頷き、何事もなかったように踵を返した。
広間へ戻ると、すでに査察官付きの書記が机を整えていた。ローヴァンは開かれた帳簿を一瞥し、穏やかな声で宣告した。
「帳簿の差異は、見過ごせるものではありません。原因が確定するまで、ヴェルド要塞への補給は停止します」
一拍遅れて、部屋の空気が音を失った。誰かの喉が鳴り、誰かの拳が握られる。アリアの瞳だけが鋭く細められた。レオンは動かなかった。証拠は守った。だが、守るべき要塞そのものが、今まさに外側から首を絞められようとしている。
書記の羽根ペンが走り、赤い封蝋が押され、補給停止の四文字が冷たく固まった。
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