追放剣士の再起録
暴動鎮圧
空腹は、朝の冷えより早く人を荒ませる。夜明けの配給場は、寒さより先に不機嫌な熱気で満ちていた。薄い麦粥の湯気はすぐに消え、木椀の底は目を凝らさなくても見える。補給停止を告げる掲示が壁に貼られたまま、列だけが伸びていく。その列の端で、住民のひとりが乾いた声で笑った。
『中央が止めたって、こっちまで止めることはないだろう』
誰かが反射で睨み返した。兵の側にいた若い男が、思わず槍の柄を握り直す。たったそれだけで、空気は裂ける。空腹は、人の理屈を最初に食い尽くすのだ。
『下がれ』
レオンが広場へ飛び込んだ瞬間、木椀が一つ、彼の足元で砕けた。『止まれ。武器を下ろせ。今ここで刃を向けるな』
だが怒りに火がついた者は、正しい言葉より速い。中年の男が空の桶を振り上げ、隣の兵へ殴りかかった。兵は反射で突き返し、背後の娘が悲鳴を上げる。そこへ、別の誰かが『食い物を隠してるのはおまえらだろう』と叫んだ。ひとつの嘘は、飢えた耳にあまりに都合がいい。
レオンは剣を抜いた。刃に淡い魔力を走らせ、飛んできた棒を峰で弾く。鋭い金属音が響くより早く、彼は石段を蹴って人波の斜めへ滑り込んだ。正面から止めれば、押し合いは潰し合いになる。だから、群れの勢いをずらす。
『槍を下げろ。押すな、横へ散らせ』
背後から来た男の肘を、剣の柄で打って落とす。腰を返して足を払うと、倒れた男の上にもう一人がつまずき、前列の圧がほんの一瞬だけ緩んだ。その隙にガルドが割り込む。豪腕で空の荷車を横倒しにし、即席の壁にして人と人の間へ身体ごと楔を打ち込んだ。
『潰れたい奴から来い。だが、その前に列を分けるぞ』
ぶっきらぼうな声だったが、ガルドの顔には、からかいではなく怒りがあった。守るべきものを踏み荒らされる怒りだ。彼の背後に、ミオが駆け込む。肩をすくめ、顔を青くしながらも、転んだ老女の膝に布を当てた。
『だ、大丈夫です。深くないです、血も止まります』
震える声だった。それでも、ミオの手は迷わない。彼女が一人の傷を塞ぐたび、周囲の熱が少しだけ下がる。怒鳴り声の中で、人は自分がただの群れではないと思い出すからだ。
そのとき、アリアが記録板を抱えて現れた。顔色ひとつ変えず、彼女は広場の中央へ立つ。
『聞きなさい。隠し倉はありません。今ある残量は、この記録の通りです。だからこそ、ここで配分を組み直す』
書記が震える指で数を読み上げる。残りの袋数、傷病者への取り分、明日の最低限。数字は冷たい。だが、嘘よりはずっとましだった。
『子ども、傷病者、働けぬ者を先にする。次に、夜番に出る兵。残りは全員で分ける』
『俺たちの分が減るのか』と、兵の一人が呻いた。レオンはその男を見た。『減る。だが、奪われるよりましだ。腹が空いているなら、なおさらだろう』
短い沈黙が落ちた。最初に桶を投げた中年男が、唇を噛んで目を逸らす。娘を庇っていた兵は槍を下ろし、レオンの指示に従って列の間を開いた。ガルドが荷車を押し、ミオが怪我人を脇へ寄せる。アリアは書記に命じて、配給順をその場で書き直させた。
レオンは剣を収める前に、広場の端を見た。灰色の外套に身を包んだ男が、騒ぎの渦の外側で、ひとりの若い男に耳打ちしている。男の指先には、見慣れぬ封蝋の欠片が光っていた。監察官ローヴァンの手口だと、直感が告げる。だが、今は追うべきではない。ここでひとつでも刃が走れば、広場はまた燃える。
『見張れ』
レオンは低く言った。『次に火をつけるのは、腹じゃない。誰かの都合だ』
その声を聞いた者たちは、まだ不満を抱えたまま、それでも列に戻った。怒りが消えたわけではない。だが、どこへ向けるべきかを、少しだけ取り戻したのだ。割れた桶と擦り傷は残ったが、死者は一人も出なかった。
やがて最初の椀が差し出され、子どもがそれを両手で受け取る。湯気を吸い込んだ小さな肩が、ふっと緩んだ。続いて老人が、兵が、商人が、順番に配給を受ける。レオン自身も自分の分を差し出し、最後尾へ回した。隣にいた誰かが、彼を見て小さく頭を下げる。その視線は、追放された男に向けられるものではなかった。ここにいる一員へ向けられる、静かな承認だった。
空腹は、まだ消えていない。だが、あの広場に満ちていた殺気は、誰も斬らずに押し流された。壁の外で見えぬ敵が笑っている気配だけが、薄い霧のように残る。
そのとき、城門の方角から、息を切らせた伝令が駆け込んだ。
『レオン殿、アリア様! 城門の外です。水路が――壊されています!』
叫びが終わるより早く、遠くで水の轟きが聞こえた。要塞を支えるはずの導水路が、外で砕かれた音だった。
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