追放剣士の再起録
兵糧断ち
夜明けのヴェルドは、剣ではなく喉の渇きで人を縛り始めていた。外壁の上にはまだ薄い霧が残っているのに、中庭の石は乾ききって白く粉を吹いている。水桶の前に並ぶ列は、昨日よりも長く見えた。見えるから長いのではない。水が減れば、待つ者の時間まで重くなるのだ。
レオンは壊れた導水路の縁にしゃがみ、継ぎ目に指を当てた。石が砕かれた跡ではない。支えだけを外し、修理する者の手間を増やすための壊し方だった。獣の爪でも、力任せの盗賊でもこうはならない。
「昨夜のうちに、知った者が来ている」
背後でアリアが配給帳を閉じた。乾いた紙の音が、やけに鋭い。
「水路だけではないわ。西倉の麦が、帳簿の上ではあるのに棚から消えている。搬入記録は合っている。つまり、誰かが途中で抜いた」
レオンは顔を上げた。水と食糧を同時に断つ。要塞を落とすには、壁を殴るより人の心を削った方が早い。腹が減れば疑いが生まれ、喉が渇けば怒りが増す。敵は、剣が届かない場所から包囲を始めていた。
「見えない包囲戦か」ガルドが腕を組んで唸った。「腹立つが、筋は通ってやがる。人手を修理に回させ、その隙に別の穴を開ける。外から攻めるより厄介だ」
ミオは水袋を抱えたまま、小さく肩をすくめた。
「こういうの、一番こわいです。敵が見えないと、みんな、自分の隣を疑っちゃうから……」
その言葉で、レオンの胸の奥が静かに痛んだ。剣なら斬れる。魔獣なら倒せる。だが、疑いは目に見えないまま人の背中に刺さる。追放されたあの日も、彼を切ったのは刃ではなく、記録と噂だった。
だからこそ、今度は同じやり方でやらせない。
「弱点を守るんじゃない」レオンは立ち上がった。「弱点を、敵を捕まえる罠に変える」
アリアの目が細くなる。
「どうするつもり?」
「水路は一箇所で直さない。古い迂回路を生かして、外に見える修理班と、内側の補助班を分ける。西倉は開けたままにせず、搬入の順を変える。井戸は番を固定しない。人が疲れる場所、視線が切れる場所、鍵が一つしかない場所から先に潰す」
ガルドが口元を歪めた。
「つまり、敵が狙う場所をこっちで先に知るってわけか」
「そうだ。攻めてくるなら、必ず痕跡を残す」
その日、四人は要塞の裏側を歩いた。普段は荷役と修理班しか通らない細い保守通路。湿った石壁には古い削り跡があり、足音が妙に低く響く。レオンはそこで、要塞がただの壁ではないことを知った。誰かが汗を流し、誰かが帳簿をつけ、誰かが見張りを立てる。その継ぎ目が守りになるのだ。
アリアは帳簿を並べ、鍵の所在と交代の時間を洗い出した。ミオは水を配りながら、顔色の悪い者を見つけては休ませた。ガルドは重い荷を肩代わりし、荷車が転びそうな曲がり角に先回りした。レオンはその輪の中で、自分の名が持ち場と並んで呼ばれるのを聞いた。戻ってきたのは剣だけではない、と彼は思った。
要塞の弱点は、壊れやすい場所ではない。人が疲れ、気を抜き、互いを疑い始める場所だ。
夕方、アリアが静かに言った。
「盗られているのは、食糧そのものじゃない。時間よ。搬入の刻限と、守りの交代。敵は、次にいつ人が少なくなるかを測っている」
レオンは倉庫の隅にしゃがみ込み、埃を指でなぞった。薄い靴底の跡。麻縄に残る油の匂い。扉の蝶番に引っかかった糸くず。何度も出入りしている者の癖だ。これは一度きりの潜入じゃない。倉庫そのものを見て回っている。
「餌を撒くか」ガルドが低く言う。
「ええ」アリアは即答した。「今夜は半分だけ搬入しているように見せる。奥に本物を隠し、手前に偽の山を作る。見張りは減らさない。減ったように見せるだけ」
ミオは喉を鳴らしたが、すぐにうなずいた。
「……私、灯りを運びます。隠れてる人がいても、見逃しません」
その返事に、レオンは少しだけ口元を緩めた。恐れながらも立つ者がいる。ここには、もう一人で剣を振るだけの場所ではない。誰かが役目を持って、同じ方向を向いている。
夜。物資倉庫は、息を殺した獣の腹のように静かだった。積み上げた袋の向こうで油灯の火が揺れ、扉の外では風が梁を鳴らす。アリアが札を押さえ、ガルドが荷台の陰に潜み、ミオが薄明かりの端を見張る。レオンは、いちばん低い袋山の影で呼吸を整えた。
天井裏の板が、かすかに鳴った。
続いて、細い影が梁から滑り落ちる。床を転がるように着地し、そのまま袋の間へ身を沈めた。レオンは一歩で間合いを詰める。
「そこまでだ」
剣の切っ先が灯りを受けて白く光った。影は止まり、ゆっくりと顔を上げる。荷役人の服だ。だが、袖口からこぼれた小袋の口には、中央監察局の赤い封蝋が結ばれていた。
レオンが息を呑んだ、その瞬間。潜入者は封蝋を握り潰し、薄く笑った。
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