追放剣士の再起録
守る覚悟
荷役人の服を着た男は、床に押さえつけられたまま薄く笑っていた。レオンの剣先が喉元を離れず、アリアの手の中では砕けた赤い封蝋が粉になっている。監察局の印だった。中央の書付が、この要塞の腹の中まで潜り込んでいる。外壁の向こうにいる敵より、ずっと厄介な手口だった。
「口を割る前に舌を噛み切る気か」
ガルドが男の顎をねじ上げ、ミオが思わず息を呑む。潜入者は血の滲む唇で笑い、何も言わずに目だけで嘲った。レオンはその視線に、追放されたあの日と同じ冷たさを見た。刃ではなく、記録と手続きで人を殺す目だ。
ガルドが男を衛兵に引き渡し、地下牢へ連れていかせると、アリアはひとりで執務室へ戻った。地図と帳簿と未決裁の書類に囲まれた部屋は、昼なのに薄暗い。封蝋を机に置くと、赤い蝋の欠片がまるで血のように散った。
報告すれば、中央はこの混乱を口実に手を伸ばすだろう。黙っていれば、後で怠慢を問われる。どちらを選んでも、責められるのは自分だ。司令代理の孤独は、敵が見えないことではない。どちらの痛みも、自分の名前で受け止めなければならないことだった。
扉が軋み、レオンが入ってきた。彼は何も聞かず、ただ机の脇に立った。その静けさが、ひどくありがたかった。
「怖いのか」
レオンが低く問うと、アリアは苦笑した。
「怖いわ。ここで私が判断を誤れば、飢えるのも、傷つくのも、全部ここにいる人たちよ。司令代理として立っていても、私ひとりの判断で全部を背負えるわけじゃない」
「背負うな」
短い返事だった。だが、それだけで十分だった。
「配れ。役目を。守るのはお前ひとりじゃない。壁も、水路も、倉庫も、怪我人も、全部ひっくるめてこの要塞だ。なら、守り方だって一つじゃない」
レオンの言葉に、アリアはわずかに目を伏せた。孤独をやめることは、弱さを認めることではない。責任を放り出すことでもない。ただ、責任を持つ範囲を見誤らないことだ。彼女は深く息を吸い、顔を上げた。
それからの指示は早かった。
「戦える者は壁へ。修理できる者は外郭の裂け目へ。運べる者は水と石を。治せる者は治療所へ。足の速い者は伝令。火を扱える者は油と松明の管理に回って。自分の役目が分からない者は、わたしのところへ来なさい。ひとりとして、ただ怯えて立ち尽くしたままにはしない」
鐘が鳴ると、要塞の空気が変わった。
市場の女たちは包帯と干し布を集め、鍛冶場の職人たちは矢尻を運び、井戸番は水の順番を整えた。ガルドは東門前の階段にどっかりと座り込み、集まった民兵や荷役に槍の持ち方を叩き込む。怒鳴り声は荒いのに、不思議と不安を削る力がある。折れたことのある者ほど、次に折れない立ち方を知っているのかもしれない。
ミオは診療所を中庭の奥へ移し、震える指で包帯を裁きながら、顔色の悪い者を次々と座らせた。血を見るたびに肩が跳ねる。それでも彼女は下を向かなかった。怖がりだからこそ、傷つく人の痛みが分かる。だから彼女の小さな手は、誰よりも早く役に立った。
レオンは訓練場へ向かい、剣を持つ者だけでなく、盾を持つ者、石を運ぶ者、梯子を支える者まで並べて、即席の陣形を組んだ。前に出る者と退く者がいて、初めて線は守りになる。彼はようやく理解していた。守るべきものは、敵の前に立つ仲間だけではない。水を汲む老人も、包帯を巻く少女も、釜の火を落とさない料理番も、この要塞で息をする者すべてだった。
ヴェルドは壁ではなくなった。誰かの汗と、誰かの痛みと、誰かの選択で形を保つ、一つの生きた場所になっていく。レオンはその中心で、自分の居場所が少しずつ輪郭を取り戻していくのを感じた。
夕刻、東の見張り台から短く鐘が鳴った。
最初はただの土煙だった。だが風が変わり、煙の切れ目に一本の旗が立つ。黒地に銀の剣を縫い取った旗。見間違えるはずがなかった。
「セルヴァンの旗だ」
レオンの声は、ひどく静かだった。けれど、その静けさの奥で、追放された日の傷口が、もう一度刃の形に開いていく。黒地に銀の剣を縫い取った旗が、東の丘で翻る。レオンはそれを見上げたまま、剣の柄に力を込めた。セルヴァンが来る。
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