追放剣士の再起録
辺境行き
白い石で組まれた帝都の輪郭が見えなくなってから、三日。レオンを乗せた軍用馬車は、石畳の消えた街道を軋みながら進み、最後の峠を越えた先でようやく目的地を現した。要塞都市ヴェルド。遠目には黒い壁にしか見えないその城塞は、近づくほどに傷だらけだった。補修したばかりの継ぎ目、爪で抉られた石、煤で黒ずんだ櫓。魔獣と盗賊に晒され続けた土地の呼吸が、壁そのものに刻まれている。
門前では、荷を積んだ馬車と、血の気を失った伝令兵が列を成していた。鎧の肩当ては凹み、盾には牙の跡が残り、誰もが眠りを削って立っている顔をしている。レオンが転属書を差し出すと、門番は一度だけ目を細め、乾いた声で言った。
「追放騎士か」
罵倒でも同情でもない、ただの事実だった。
レオンは何も答えなかった。扉が開き、城壁の内側に足を踏み入れた瞬間、そこがただの町ではなく、今日を生き延びるための機械だと分かった。鍛冶場の槌音、荷揚げ場の怒鳴り声、兵舎から漏れる咳、糧秣庫の前で数を数える書記の声。要塞は眠らず、休まず、どこかが壊れるたびに別の誰かがそれを支えていた。
待っていたのは、灰色の外套を纏った女だった。アリアは書類を一瞥すると、レオンの顔を見上げた。
「レオン。今日からヴェルド所属。あなたの過去に興味はないわ。ここで何ができるか、それだけを見る」
「随分と率直だ」
「率直でいなければ、ここでは人が死ぬ」
彼女の声には温度がなかった。けれど、その冷たさは切り捨てるためではなく、余計なものを挟まないためのものだと、レオンにはすぐ分かった。
司令部で、アリアは壁に貼られた補給路図を指先で叩いた。帝都から続く一本の道は、今や赤い印で幾度も断たれている。魔獣の出没、盗賊の襲撃、そして雨季の崩落。理由を並べればきりがない。だが、結果はひとつだった。届くはずの糧秣が届かず、届いたはずの武具が数を減らし、帳簿だけが妙に整っている。
「中央は数字しか見ない。現場の傷は、帳簿に書かれていなければ存在しないことになる」
アリアはそう言い、封蝋の押された報告書を二枚、机に置いた。
「補給の遅れは三週間。けれど、この紙の上では『異常なし』よ」
レオンは紙面を見下ろした。綺麗すぎる字だ。綺麗すぎる報告は、たいてい誰かの痛みを隠している。
次に案内されたのは城壁の上だった。風は冷たく、外周の掘割は半分泥に埋もれている。弓兵はいるが、矢筒は軽い。見張り櫓のひとつは、夜襲で焼けたままの黒ずんだ梁を残していた。
「ここを抜かれれば、後ろの農村が先に焼かれる」
アリアが言う。
レオンは頷きながら、壁の角度、兵の位置、荷車の通路を見た。ひと目で分かる死角がある。補給の荷を積み上げたままにしたせいで、南の見張りが半分塞がれている。
「ここ、荷の置き場を二歩下げるべきだ」
「……見ただけで分かるの?」
「前線では、見落としが死人を作る」
城壁の上で振るわれる剣は、華やかな決闘剣ではない。狭い足場で仲間の死角を埋め、魔力を刃に乗せて一撃を通す、削り合いの武技だ。レオンはその理屈を、身体で思い出しながら景色を見ていた。
背後から豪快な笑い声が飛んだ。
「その通りだ、新入り」
振り返ると、大柄な男が木箱を肩に担いでいた。傭兵隊長ガルド。剃り込んだ顎に無精ひげ、腕は丸太のように太い。彼は木箱をどさりと下ろすと、レオンを値踏みするように見た。
「剣の腕だけなら中央の飾り物でも務まる。だが、ここじゃ荷も運べなきゃ話にならねえ」
「なら、見ていろ」
レオンは箱をひとつ、片手で持ち上げた。重い。だが持てない重さではない。ガルドは目を細め、にやりと口角を上げた。
「悪くない。少なくとも、見栄だけで生きてきた面じゃないな」
その短いやり取りだけで、兵たちの視線が少しだけ変わった。追放者を見張る目ではなく、使い道を測る目に。
午後の残りは、糧秣庫と兵舎の見回りに消えた。棚は空きが目立ち、干し肉の樽には半分以上の数しか残っていない。治癒室では、薬草が乾く前に尽きそうだと若い治癒師がぼやき、負傷兵は切れた包帯を何度も巻き直していた。ここは戦場のすぐ後ろにあるはずなのに、戦場そのものより静かに人を削っている。
「中央は査察の前だけ補給を増やすの」
アリアが低く言った。
「数字を整えるためにね。足りない分は『輸送事故』か『野盗被害』として処理される。誰が食い詰めても、上には関係ない」
レオンは何も言わなかった。怒りはあった。だが、それ以上に、目の前の現場を守り抜いている人間の顔があった。アリアも、ガルドも、名もない兵士たちも、明日を諦めていない。その事実が、胸の奥の冷たい灰をゆっくり崩していく。
夕刻、レオンは自分に割り当てられた狭い寝台に剣を置き、黙って鞘を拭いた。窓の外では、城壁に沿って松明が灯り始めている。風の音の向こう、北の平野から、遠い獣の咆哮が一度だけ響いた。
ここは罰として送られた場所だ。だが、ただ捨てられるだけの土地ではない。誰かが踏みとどまり、誰かが食い止め、誰かが守っている。ならば自分も、その輪の中に入るだけだ。
レオンがそう思ったときだった。
外周の見張り櫓から、鋭い角笛が突き上げるように鳴った。
次の瞬間、要塞全体を裂くように、夜襲警報の鐘が鳴り響いた。
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