夜襲警報の鐘は、最初の一打で眠りを裂き、次の一打で要塞を戦場に変えた。 レオンが城壁の階段を駆け下りたとき、ヴェルドの夜はすでに赤かった。松明の火が揺れ、矢の飛ぶ音が風を裂き、誰かの叫びが石壁にぶつかって消える。防衛隊は混乱していたが、完全に崩れてはいなかった。崩れないために、歯を食いしばっている顔があった。 「南の治癒区画が切り離された。中に治癒師が残ってる」 息を切らした伝令兵がそう言った瞬間、レオンはもう走り出していた。治癒師。名は知らなくても、前線で何より先に必要になる人間だ。剣が前を切り開くなら、治癒師は後ろをつなぐ。どちらが欠けても、この要塞は長く持たない。 南棟へ続く回廊は、途中で崩落していた。焼けた梁が斜めに落ち、煤の匂いと薬草の匂いが入り混じっている。隙間から覗くと、奥の小部屋でひとりの女が身を縮めていた。灰を被った髪、白い治癒衣、震える指先。胸元には薬包がいくつも挟まれ、片手には簡素な杖が握られている。 「来ないで」 女はレオンを見て、反射的に一歩下がった。 「扉は塞がってる。わたしなら、自分で」 言い終える前に、壁の裂け目から黒い影が飛び込んできた。狼に似た魔獣だった。だが、目の色が妙だった。獣のはずなのに、光を吸い込むような鈍い紫を宿している。 レオンはためらわない。狭い回廊では、余計な動きは死を呼ぶ。踏み込み、肩を落とし、刃に魔力を乗せる。剣は火の筋を引き、魔獣の首を断った。返す刃で二体目を壁に叩きつける。石が砕け、血が飛ぶ。三体目が天井を蹴って跳んだが、レオンは半歩だけ位置をずらし、落下の勢いごと喉を貫いた。 最後の一体が崩れ落ちるのと同時に、レオンの左肩に遅れて痛みが走った。爪が浅く抉ったらしい。血が滲む。 「動かないで」 さっきまで怯えていた女が、今度はレオンの前にしゃがみ込んだ。震えは消えていない。それでも、杖の先に淡い光が宿る。彼女は唇を噛み、ひどく頼りない手つきで傷口に触れた。 温かな光が皮膚の裂け目へ沈み、焼けるような痛みが静かに引いていく。 「……ごめんなさい。少し、遅い」 「十分だ」 レオンは短く答えた。 「前に立つのは俺だ。傷を止めるのが遅くても、手が止まらなければそれでいい」 女は目を見開いた。戦場でそんなことを言う者は少ない。まして、自分の傷を他人の価値に変えない者は、もっと少ない。 「わたし、ミオ」 ようやく名乗った声は小さかったが、もう逃げてはいなかった。 「前の任地で、治せなかった人がいたの。あれから、手が震える。だから、わたしはいつも後ろにいるだけで……」 言葉はそこで途切れた。喉の奥に沈めた悔いが、顔にまで滲んでいる。 レオンは立ち上がり、剣を払った。 「後ろにいるのが悪いんじゃない。動けなくなるのが悪いんだ」 ミオはしばらく黙っていた。それから、傷の残る薬箱を抱え直し、小さく息を吐く。 「……なら、次はわたしも動く。あなたの傷を見て、倒れた人を見て、必要なものを運ぶ。治すだけじゃなくて、つなぐ」 その言葉は大げさではなかった。だが、彼女にとっては剣を抜くより大きな一歩だった。レオンは頷いた。初めて必要とされたのは、自分だけではない。彼女もまた、ここで役に立つ場所を探している。 二人は治癒区画を出た。回廊では負傷兵が運ばれ、焦げた床の上で兵士たちが息を整えている。ミオは黙々と包帯を渡し、出血の多い者から順に処置を始めた。さっきまで怯えていた指先が、今は迷いなく動いている。レオンがひとりを背負って運べば、ミオがその腕の裂け目を見逃さない。レオンが道を確保すれば、ミオが治療のための時間を稼ぐ。 たったそれだけのことが、驚くほど戦場の形を変えた。 夜明け前、襲撃が収まったころ、レオンはミオを連れて城壁の上に上がった。焼けた櫓の脇には、魔獣の死体がいくつか転がっている。だが、レオンの目はすぐに別のものを捉えた。石壁の上部、魔獣が跳びかかったはずの場所に、異様に深い抉れが残っている。 「おかしい」 ミオがしゃがみ込み、松明を近づけた。 「この爪痕、普通の魔獣じゃない。石を削る向きが、逆……?」 レオンも膝をつき、指で傷をなぞった。石肌は冷たく、そこには獣臭ではない、湿った鉄と焦げた薬のような匂いが残っている。爪痕は三本。だが、獣のものにしては浅い筋が不自然に長く、まるで壁を掴み、確かめるように這い上がった何かがいた痕だった。 そして、抉れた石の隙間に、見慣れない黒い鱗片が一片、光を吸っていた。 ミオが息を呑む。 「こんな痕、記録で見たことがない……」 レオンはその黒い破片を拾い上げ、夜の向こうを見た。追放され、流され、ようやく掴みかけた居場所の先に、まだ名も知らぬ敵がいる。 城壁に残っていたのは、ただの夜襲ではない。未知の魔獣の痕跡だった。

コメント

コメントを投稿するにはログインが必要です

ログイン

まだコメントがありません

レビューを投稿するにはログインが必要です

ログイン