追放剣士の再起録
証拠争奪
一枚でも欠ければ、すべてが崩れる。証拠とはそういうものだと、レオンは今夜ほど痛いほど思い知っていた。だから黒布の影が証拠箱へ手を伸ばした瞬間、迷いなく踏み込む。
「触るな!」
帝都外郭の安宿の一室は、次の瞬間には戦場だった。狭い室内に滑り込んだ三つの影は、殺すためではなく奪うために動いている。その動きが、かえって厄介だった。喉も胸も狙わない。封蝋を割る手首、紙束を抱えた腕、留め具だけを正確に断ち切ろうとしてくる。
レオンは魔力を薄く乗せた剣で短剣をはじき、半歩踏み込んで柄頭をみぞおちへ叩き込んだ。相手が崩れるより早く、もう一人が床を蹴って証拠箱へ滑り込む。だが、その進路に机を斜めに押し出したのはアリアだった。
「通すわけがないでしょう」
冷えた声が、部屋の空気を締める。彼女は紙束の上に指を置き、視線だけで一枚も傷つけないと告げるように刺客を見返した。司令代理の目は、剣より鋭かった。
その背後で、ミオが震える手で証拠箱を抱きしめる。けれど、ただ縮こまってはいなかった。包帯と薬草袋の間へ箱を押し込み、自分の外套で覆う。壊れ物を守る仕草だった。それはいつのまにか、誰かの命を抱く手つきに変わっている。
「……だいじょうぶ。ここに、ある」
掠れた声が、レオンの胸を熱くした。レオンの掌をかすめた短剣の傷へ、ミオが震える指を伸ばす。熱が走り、裂けた皮膚がふさがっていく。その間も、彼女のもう一方の手は証拠箱を離さなかった。
廊下から叩き込まれるような斧の風鳴り。ガルドが扉枠ごと敵の退路を潰して飛び込んできた。
「狭ぇな。だが、狭いなら狭いでいい」
豪快な声と共に、大斧が床板を抉る。逃げ道を失った刺客の足首が木片に取られ、体勢が崩れた。ガルドはその隙を逃さない。殺し切らず、だが立ち上がれぬほどに叩き伏せる。前衛としての役目を、誰よりも理解している男の一撃だった。
レオンは残る一人の剣筋に、妙に整った冷たさを見た。無駄がない。最短で、最小の動きで、必要なものだけを奪う剣。帝都の裏で磨かれた刃だ。追放の記憶が、ひやりとした痛みになって蘇る。
あの時は、剣だけでは届かなかった。
だが今は違う。
背後には、紙を守る手があり、傷を癒やす手があり、道を塞ぐ肩がある。ひとりなら折れていた。けれど今のレオンは、一人で立っていない。
「誰の命令だ」
問うと、黒布の奥で男が息を吐いた。
「名を知ってどうする。お前たちは、帝都に触れすぎた」
「触れたんじゃない」レオンは剣を構え直す。「返しに来たんだ。奪われたものをな」
返答に、男の動きがわずかに鈍る。刹那、アリアが机上の燭台を蹴り上げた。炎が天井へ跳ね、部屋の暗がりを一瞬だけ白く染める。その光の中で、ミオが床へ落ちた一枚の紙片を見つけ、転がるように拾い上げた。
「……あった」
その声は小さい。けれど、誰よりも強かった。
最後の刺客が窓を破って逃げたのは、その直後だった。追うべきか、守るべきか。レオンが一瞬だけ迷うより早く、アリアが首を振る。
「追わなくていい。何より優先するのは、ここにある証拠よ」
レオンは頷いた。床に散らばった紙束を一枚ずつ拾い上げる。封蝋は割れていない。帳面の写しも、補給停止を命じた書状も、斥候の証言も、すべて揃っていた。
一枚も、失われていない。
その事実に、ようやく息が戻る。ミオは床に座り込んだまま、泣きそうな顔で笑った。ガルドは破れた扉を足でどけ、苦笑する。
「紙ってのは、こんなに命懸けで守るもんだったか」
「命懸けで守る価値があるからだ」
レオンの答えに、誰も反論しなかった。
翌朝、外廷の記録庫は異様に静かだった。昨夜の襲撃が噂になり、書記たちは皆、顔色を変えている。あの老書記は受理札と無傷の証拠を見比べると、深く息を吐いた。
「ここまで露骨に邪魔が入るなら、もはや内々では済まん」
乾いた声でそう言い、彼は公印を押した。重い音が、石造りの部屋に響く。
「公開裁きは三日後。場所は外廷第一法廷だ。被告も証人も、中央の目の前で語ることになる」
その一言で、空気が変わった。レオンは日付の刻まれた受理札を見つめる。三日後。帝都の真ん中で、腐敗は言い逃れを失う。証拠は守った。あとは、裁きの場に立つだけだ。
三日後、外廷第一法廷。公印の朱が、その日を逃げ場のない約束に変えていた。
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