追放剣士の再起録
初陣
夜明けの鐘が鳴るころ、ヴェルドの東壁にはまだ昨夜の血と煤の匂いが残っていた。
レオンが召集された広場に集まっていたのは、正規兵でも傭兵でもない、寄せ集めの防衛隊だった。槍の長さはばらばら、盾の継ぎ目は欠け、顔には寝不足と不信が貼りついている。半分は昨日の襲撃で負傷し、残り半分は「追放された剣士に背を預ける気はない」と言わんばかりの目をしていた。
「今日の外周はお前が見る」
そう告げたのは、司令代理アリアだった。簡素な外套に身を包み、壁の上から見下ろす横顔は相変わらず冷たい。だがその声は命令ではなく、現場を知る者だけが出せる現実的な重さを持っていた。
「補給路の守りが薄い。兵は足りない。だから、君にまとめてもらう」
「俺ひとりで全部は無理だ」
「全部やれとは言っていない。崩れないようにしてほしい」
レオンにとって、人を率いて立つのはこれが初めてだった。剣一本で生き延びるやり方なら知っている。だが、壁を守る戦いは違う。誰かを前に立たせ、誰かを下げ、誰かの震えを、そのまま戦力に変える必要がある。
彼は防衛隊の前に立つと、隊列を眺め、ひとりひとりの足運びと呼吸を見た。最初に言ったのは、励ましでも怒鳴り声でもなかった。
「前に出るのは三人だけだ。残りは下がれ。いまのままだと、全員まとめて死ぬ」
ざわめきが起きた。だがレオンは構わず、盾兵の位置をずらし、槍兵を二列に分け、弓兵には射線を重ねるなと命じた。号令をかけても、動きは半拍遅れた。足はそろわず、視線は交わらず、彼ら自身が互いの邪魔をしている。それでもレオンは一歩も引かなかった。言葉で理解させる時間はない。動きで示すしかない。
その時、南側の見張りが鐘を鳴らした。
外周の下、霧の切れ目から黒い影が跳ね上がる。狼に似た群れだった。だが先頭の一体だけは、普通の魔獣ではない。肩から背にかけて黒い鱗が走り、石を掴むような爪で斜面を駆け上がってくる。昨夜、城壁に残されていた痕跡と同じ匂いがした。湿った鉄と、焦げた薬のような臭い。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶより早く、レオンは身を沈めていた。彼は前に出た。ではなく、前に出させた。
「槍、右に半歩。弓、二射目まで待て。盾、左を開けるな!」
最初の狼が飛びかかる。レオンは刃に魔力を乗せ、一閃で喉を裂いた。返す刃で二体目の肩を断つ。鋭い剣閃が赤い線を描き、魔獣の勢いを止める。それでも群れは止まらない。怯えた一人が槍を引きかけた瞬間、黒鱗の魔狼がそこへ滑り込んだ。
「伏せろ!」
レオンは叫びながら、足元の石を蹴った。崩れた瓦礫が跳ね、魔狼の視線が一瞬逸れる。その隙に盾が閉じ、槍が突き出される。だが一撃では足りない。鱗に阻まれ、先端が滑った。
「左の三人、同時に押せ! 前じゃない、上だ!」
命じられた兵たちは、反射ではなく意志で動いた。押し上げられた槍先が鱗の隙を捉え、魔狼の体がわずかに浮く。レオンはその瞬間を逃さなかった。踏み込み、剣を縦に落とす。魔力を宿した刃が鱗の割れ目を貫き、黒い血が石畳に散った。
首を断たれた魔狼は、最後に一度だけ身を捩らせた。レオンは刃を抜かず、剣を支点にして身をかわす。背後で盾兵が踏ん張り、転倒しそうな仲間を抱え起こした。
「下がるな! 次が来るぞ!」
今度の声は、もう怯えていなかった。
レオンは続く狼を斬り伏せながら、隊列の崩れをひとつずつ埋めていった。命令を聞き、位置を変え、互いに背を守る。たったそれだけで、さっきまで寄せ集めだった連中が、一つの防壁になっていく。
その隙間で、ミオが膝をついていた負傷兵の腕を素早く止血する。震える指はまだ完全には止まらない。それでも彼女は逃げなかった。
「動いて、ください……次の人を運びます」
その声を聞いたレオンは、短く息を吐いた。彼女もまた、前に進んでいる。
やがて霧の中の気配が消え、外周には荒い呼吸だけが残った。黒鱗の魔狼を含む群れは、半数以上が石畳に伏している。生き残った兵たちは、信じられないものを見る目でレオンを見た。
「……今の、あんたの命令どおりに動いたら、本当に勝った」
「勝ったんじゃない」
レオンは剣を下ろし、息を整えた。
「生き残ったんだ。次も生きるために、今日の動きを忘れるな」
誰かが小さく笑い、誰かが肩の力を抜いた。さっきまで背中を向けていた兵が、今は自然に彼の周囲へ集まってくる。勝利の声は大きくなかったが、確かに要塞の空気を変えていた。
「見事だった」
振り返ると、アリアが階段の上に立っていた。壁越しに戦場を見下ろしていたはずなのに、声には感情の波が少ない。ただ、その瞳はいつもより少しだけ鋭く、少しだけ近い。
「外周の防衛隊がここまで動けるとは思わなかった」
「動いたのは、俺じゃない。あいつらだ」
「その動かし方が、君の仕事だ」
アリアは一瞬だけ視線を外し、戦場の向こうを見た。焼けた木材の向こう、まだ霧は薄く残っている。その沈黙の中で、彼女は低く言った。
「今夜、北塔の奥へ来て。誰にも聞かせたくない話がある」
レオンは、問い返さなかった。
初陣の勝利は、確かに彼の価値を証明した。だが、アリアの声はそれだけではない何かを告げている。
彼は剣を鞘に戻し、頷いた。
「分かった」
その返事を聞くと、アリアは何も言わずに背を向けた。風が外套の裾を揺らし、その姿はすぐに要塞の影へ溶けていく。残されたレオンは、まだ熱の残る剣の柄を握りしめた。
勝ったはずの朝に、次の戦いの匂いがもう立ち上っていた。
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