夜の見回りは、城壁の上よりも、内側の静けさが怖かった。  石畳を踏む靴音が四つ。先頭にアリア、その半歩後ろにレオン、横にガルド、少し離れてミオ。肩ひとつ分の空白が、まだ互いの癖も痛みも知らない距離をそのまま形にしていた。  今夜の夜警は、昨夜から戻らない伝令の足跡を探すためでもある。補給の道は、剣より書類で壊れる。アリアはそう言って、誰よりも早く歩いた。  振り向かずに飛んでくる声は、短い。 「東翼、兵舎裏、食糧庫。異常があれば報告。追うな。囲め」  任せるから、勝手に壊すな。そう言われている気がした。  追放される前の自分なら、こんな慎重さを臆病と切り捨てただろう。だが今は違う。守る戦いでは、踏み込みすぎた剣が味方の足を払うことを知っている。  兵舎裏へ回ると、ミオが石段の黒ずみを見て、わずかに息を止めた。 「……血?」  乾いてしまった古い痕だったが、彼女の指先は一瞬だけ震えた。 「怖いか」  レオンが問うと、ミオは唇を噛んでから、小さく頷いた。 「怖いです。治すのは好きなのに、傷を見ると、まだ、体が先に逃げそうになるんです」 「逃げてもいい」  言いかけたガルドを、ミオが睨み返す。 「逃げてもいいけど、戻ってこいって言うなら、どうすればいい?」  レオンはそこで答えた。 「戻る場所を先に決める。お前が戻る場所は、俺が空けておく」  ミオの目が、ほんの少しだけ見開かれる。怖さは消えない。だが、怖いままでも手が動くかもしれない、とその顔が言っていた。  ガルドが大げさに肩をすくめた。 「おいおい、そういうのは俺の仕事だろ」 「なら、前で受けて」 「任せろ。昔みたいに突っ込んで、全部ひとりで終わらせる真似はしねえ」  その言葉に、レオンはガルドの横顔を見た。豪快な笑いの下に、古い傷がある。前に出すぎて、誰かを守れなかった記憶の傷だ。大きな男ほど、過去の痛みを隠すのが下手なものだ、とレオンは思った。  その時、兵舎裏の排水溝から、金属を爪で引っかくような音がした。  アリアの声が落ちる。 「灯りを消せ」  次の瞬間、闇の底から飛び出したのは、二頭の夜狼だった。痩せた胴体に泥をまとい、目だけがやけに黄色く光っている。狙いは早い。ひとつは食糧庫、もうひとつはミオのいる退路だった。 「ガルド、左を塞げ。ミオ、下がって傷を見ろ。レオン、右へ誘え」  アリアの指示は、短く、鋭い。  ガルドが大斧の柄を壁に打ちつけ、獣の鼻先を強引に逸らす。ミオは悲鳴を呑み込みながらも、一歩も引きすぎない。レオンは鈍剣に薄く魔力を乗せ、夜狼の正面を受けずに斜めへ流した。  斬るのではない。止めるのだ。  追放される前のレオンなら、正面から叩き伏せただろう。だが今は、味方の呼吸が先にある。  夜狼の肩がわずかに崩れた、その瞬間を逃さず、ガルドの一撃が頭蓋を砕く。もう一頭がミオへ跳んだが、彼女は目を閉じず、包帯ごと手首を捻って避けた。レオンの剣が腹を浅く裂き、アリアの槍が喉元を貫く。  獣が崩れ落ちる。  静けさが戻った時、ミオの指先はまだ震えていた。だが、彼女は確かに最後までそこにいた。 「……やれた」  呟いたミオに、ガルドが笑う。 「やれたじゃねえ。やりきった、だ」 「細かいです」 「大事だろ」  アリアは槍を払って返り血を落とし、倒れた夜狼の顎を一瞥した。 「連携は成立した。次は侵入経路を塞ぐ。レオン、ここを記録して」 「了解」  命じられて、レオンは頷いた。奇妙だった。剣を振るうより、こうして報告をまとめる方が、今はよほど自分の仕事に思える。  火桶のある詰所へ戻ると、アリアは薄いスープを四つの木椀に分けた。戦場の報酬にしては頼りない。だが、その温度だけで身体が少しずつ戻ってくる。  ガルドは腕の浅い裂傷を見つけられて舌打ちし、ミオに強引に治療されている。 「痛え、痛え。もう少し優しくしろ」 「優しくしてたら、治りません」 「容赦ねえな」 「それは、あなたです」  ようやく出たミオの小さな笑い声に、詰所の空気が和らぐ。レオンはその光景を見ながら、胸の奥の硬いものが少しずつほどけていくのを感じていた。  アリアが椀を置き、静かに言う。 「私は、中央の命令を待って要塞を失った夜を二度と繰り返したくない」  その声には、怒りよりも深い疲れがあった。だからこそ、軽くはない。 「私は正しい指示が来るのを待って、兵を死なせた。だから今は、ここで止める。ここで判断する」  ガルドが木椀を飲み干し、鼻を鳴らした。 「いいじゃねえか。要は、俺たちはここで踏ん張るってことだ」  ミオが両手で椀を包みながら、少しだけ背筋を伸ばす。 「私、まだ怖いです。でも……怖いままでも、隣に立てるなら、立ちたいです」  その言葉に、レオンは静かに息を吐いた。 「俺も同じだ」  追放される前の自分は、強さを証明するために剣を振っていた。勝てばいい、斬れればいい、そう思っていた。だが、それでは誰も帰ってこない。 「今夜わかった。剣は、前へ出るためだけにあるんじゃない。誰かが踏み出せるだけの余白を残し、帰る場所を守るためにもある」  アリアが初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。 「ようやく、その答えにたどり着いたのね」  ガルドが木椀を掲げる。 「なら、今夜から俺たちは小隊だ。剣の一本や二本で崩れねえ、しぶとい奴らのな」 「異存はない」  レオンが言うと、ミオも小さく頷いた。  肩ひとつ分あった空白が、いつの間にか半分ほどになっていた。まだ完全に背を預けられるわけじゃない。けれど、互いの痛みを知った夜は、それだけで十分に明るかった。  夜明け前、交代の鐘が鳴る直前だった。  外門の詰所に、泥だらけの伝令が駆け込んでくる。息を切らし、濡れた外套の下から一通の封書を差し出した。 「レオン宛て。至急、他言無用で」  封蝋は褪せていたが、形はよく知っている。軍の正式な印ではない。もっと古く、もっと私的な、あり得ないほど見覚えのある印だった。  レオンが指先でそっと触れた瞬間、紙の中に沈んだ筆圧の癖が、胸の奥を強く叩いた。  その字を、彼は知っている。  死んだはずの旧友の、あり得ないほど見慣れた筆跡だった。  封の口から見えた、たった一文字。  『レオンへ』  それだけで、夜の空気が音を失った。

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